転載元:https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1547277582/

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1: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)16:19:42 ID:m3W
1(中)死球を与えた際には、帽子を取り一礼して打者に詫びる(海外にこの文化はない)
2(右)球団に直訴して病床の子供を励ますため病院へ
3(指)試合を観戦した障害者たちに対し、ガッチリと両手で握手しサインボールを手渡す神対応
4(一)入団翌年の東日本大震災に心を痛め、家族を呼び寄せてチャリティーを開催
5(三)連敗中のバス移動でチームメイトにピザを振る舞う
6(左)そのピザは全てチームメイトに分け与えたので自身は食べなかった
7(二)右肩故障からの復帰登板後に勝利すると、同じ故障でリハビリ中の斎藤佑樹にウイニングボールを渡して激励
8(捕)退団時、挨拶を終えるとロッカールームで号泣した
9(遊)退団時、スポーツ紙の記者に記事の礼を述べた
投 2年連続二桁勝利
監督 引退後は宣教師に転身

2: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)16:40:57 ID:JTY
退団後は引退?

4: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)16:43:59 ID:wh4
>>2
マイナー契約やったと思う
んで引退かな

5: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)16:45:14 ID:L8A
今成績見て来たんやが何で3年目からガタ落ちしたん?

6: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)17:20:01 ID:5gF
>>5
7番にあるようにてょと同じ右肩の関節唇痛めてクリーニング手術してるんや
一応復帰して投げれるようにはなったけど完全復活は無理やった

9: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)17:29:57 ID:8Tn
 日本ハム退団後、ケッペルはレッズと2年のマイナー契約を締結。記事でも「2014年初め、ボビー・ケッペルはシンシナッティ・レッズの先発投手になるところだった。2000年のMLBドラフトで1巡目に指名され、日本で4年間スキルを磨き、アメリカでそのスキルを活かす準備は万端だった。彼が登板するのは時間の問題のように思われた」とされ、米球界に復帰することになっていた。

 だが、ケッペルは2014年以降、マイナーリーグでも1試合も登板していない。何があったのか。

「父のカート・ケッペルは癌と闘っていて、息子に実家に戻ってきて家業の造園事業を手伝うように頼んだ。ほとんどの選手にとっては苦渋の決断となるだろうが、ボビー・ケッペルにとっては簡単であった。ミズーリ州セントルイス出身の当時31歳だったケッペルは先発投手になる夢を捨て、ミッドアメリカ・ローン・メンテナンスの経営に携わり始めた」と記事では言及。ケッペルは現役を引退し、父が営んでいた家業を継いでいた。

「父が1982年に造園事業を始めた。2014年初めに癌と診断されるまで、彼が主に1人で経営してきた。その年のスプリングトレーニングに参加する前、彼は大丈夫、なんとかするよと言っていた。その少し後、治療がよりアグレッシブになった。彼は僕の力だ必要だと言った。だから、プロ野球選手としての最後に投げたのが(日本で)空振り三振を奪った93マイルの直球になった。翌日、妊娠6か月の妻と3人の子供と一緒に実家に帰った」

「日本で4シーズン過ごし、スキルを磨いた。投球だけでなく、先発投手としての技術を磨いた。レッズでローテーションの座を獲得するために、スプリングトレーニングに参加する準備は万端だった」

 父親のため、家族のために、現役を退く決断を下したケッペル。当時の決断を「難しくなかった。メジャーリーグの先発投手になりたかったが、家族が優先だった。信じられないかもしれないが、とても簡単な決断だったよ。時が経つにつれ、時々まだプロ野球選手だったらどうだっただろうと思うこともあるが、それでも個人の野心よりも家族が大事だということは分かっている」と振り返ったケッペル。日本ハムを退団し、アメリカに戻った後、家族のために生きる人生を選んでいた。
https://full-count.jp/2018/11/25/post255297/

引退の仕方までかっこいい

8: 名無しさん@おーぷん 2019/01/12(土)17:22:24 ID:qzv
神定期